西南戦争終焉の地『城山公園』
2020/01/01
城山公園
鹿児島市城山町、街の中心部に「城山公園」という標高107メートルの小高い山がある。樹齢400年を超えるクスノキや、亜熱帯植物が多く自生する自然の宝庫だ。遊歩道での散策も楽しめ、市民の憩いの場にもなっている。
また、展望台からは桜島をはじめ錦江湾や市街地を一望でき、天候に恵まれれば霧島や指宿の開聞岳(以前取り上げた開門トンネルもこの山中)も見える。さらに、夜景も美しいことで有名だ。
観光客や散歩をする人々で昼夜賑わってはいるが、かつてこの場所は日本最後の内戦『西南戦争』の激戦地でもあった。
(城山の戦い)
西南戦争
西郷隆盛とは言わずと知れた維新三傑の一人であり。薩長同盟を長州藩と結び倒幕を果たした薩摩藩の中心人物である。倒幕後は新政府の要職に就くが、明治6年(1873)10月23日、政策の違いにより西郷は政府から身を引き、故郷鹿児島へ帰省する。
当時の日本は徴兵令や重税に反対する国民によって新政府への反乱が頻発していた。西郷も1877年自らが立ち上げた私学校の生徒らに擁立され、反政府運動を指揮したのだ。
これが西南戦争の始まりである。
1877年2月、鹿児島を新発した西郷軍に対して大久保政権(新政府軍)は徴兵令により編成した約6万の軍を投入。これを鎮圧した。新政府軍に敗北した西郷らはこの地(現在の城山公園)にて自決した。
…以上が西郷隆盛と西南戦争についてのざっくりとした概要だ。
この公園は先ほど述べた反政府軍が身を潜めた洞窟や、西郷隆盛が自決した場所など、西南戦争の名残が今でも残っている。さらに心霊スポットとしても知られているが、私の聞いたイワレとこの戦争は全く関連が無い。
「展望台のトイレで女性の死体が見つかった」「トイレで首つり自殺があった」「心霊写真が撮れる」「公園のアスレチックに霊が出る」といったものだ…。
城山一帯は西南戦争で多くの死者を出している事から、霊にまつわる噂が出回るのは当然だと思う。しかし戦没者の霊にまつわるイワレが無いのは不思議だ。逆に興味深い。
もし戦没者の霊に遭遇できるのであれば、また新たな怪異の遭遇例としてネットに記すことができる。この記事の読者様にも喜んでもらえるかもしれない。これがこの地を訪れた大きな動機である。
●西郷が建てた私学校跡の石垣
●薩摩軍に対して新政府軍が放った無数の弾痕が残っている
●石垣の上には慰霊碑が、「明治十年戦没弾痕」と刻まれている
●西郷隆盛が最後の5日間を過ごしたという洞窟に向かう
●ここに西郷隆盛が身を潜めていた
●残念ながら中には入れなかった
●続いて、西郷隆盛が自決した場所へ向かう
●ここで西郷は新政府軍に腰と太ももを撃たれる。最後を悟った西郷は側近の別府信介に介錯されこの世を去った
●別の洞窟を見つけたので進入してみる
●洞窟を利用した西南戦争の資料館だった
●洞窟内にて西郷隆盛像を発見。なぜか左右の目の位置が違うので気味が悪い
●洞窟から出て、山頂の展望台へ
●城山公園名物の夜景、深夜でなければ鹿児島のシンボル桜島も見える
●お地蔵様
●公衆便所
●冒頭のイワレにある霊が出るアスレチック。奇妙な「パキッ…パキッ…」と言う音は聞こえたがそれが霊の仕業なのかはわからない
探索者より
私が訪れてきた心霊スポットの中で最大の死者数です。
その為「今度こそは怪異に出会うかもしれない」と覚悟していたのですが…残念なことに最も恐怖を感じませんでした。
繁華街が近いこと、さらに観光地になっており、夜も人の往来が非常に多いのです。
西郷隆盛が内乱を起こした理由については諸説ありますが、私が深く感銘を受けた書籍より西南戦争についての考察を引用させてもらいます。
『維新を成し遂げた日本が盲目的に西洋化を推し進めている。本来進むべき道を誤っているように思われてならない。このままでは国が滅びる。それこそが、下野して以来の西郷の真意であったのではないか。』
同郷の大久保率いる西洋の最新兵器を導入した6万の新政府軍、それに対し数では劣る上に旧式武装で挑んだ薩摩軍、敗北し最終的には自決に至った西郷隆盛の無念はこの地に強く刻まれています。探索した私はそれを強く感じざるを得ませんでした。
大義を全うする為に玉砕した最後の侍は、今の日本をどう思うのでしょうか。
城山の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89
参考文献:
鹿児島県観光サイト
http://www.kagoshima-kankou.com/guide/10525/
東京法令出版「歴史資料館 日本史のライブラリー」P200~P203 P214~P217
展転社「日本人の歴史哲学―なぜ彼らは立ち上がったのか」 2005/11
